加藤けんいち日記

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南方諸地域戦没者追悼式

  26日、沖縄県糸満市の「摩文仁(まぶに)の丘」にて行われた、平成30年度神奈川県南方諸地域戦没者追悼式に、神奈川県市長会の代表として参加しました。

 

  この追悼事業は、先の大戦における南方諸地域戦没者を慰霊するべく、「摩文仁の丘」に「神奈川の塔」を建立した昭和40年以来、毎年この時期に行われており、神奈川県知事を代表に、県遺族会の皆さんなどからなる慰霊団が参加し、県議会、県市長会、
県町村会などからも代表者が参列します。今年は、県市長会の小林・厚木市長の都合がつかないため、副会長である私の参加となったものです。

 

  朝6時に自宅を出発しましたが、途中保土ヶ谷バイパスや首都高湾岸線などでの事故渋滞で、予定の便に間に合わないというトラブル。修学旅行生などで席が埋まっている中、後発の那覇行きチケットを何とか確保、午後2時半の開式5分前にやっと会場へ辿り着きました。

 

  平和記念公園から少し登ったところにある「神奈川の塔」では、100名近い皆さんの列席のもと、時折強い陽射しの降り注ぐ中で追悼式が厳粛に執り行われ、私からも県市長会として追悼の辞を読み上げさせていただきました。この場所には、4年前に「神奈川の塔」が改修された後に県市長会として訪ねて以来、2度目。また平和記念公園には以前家族で沖縄を訪ねた際に、資料館見学なども兼ねて訪ねており、都合3度目となります。式後、平和記念公園が面する太平洋の岸壁から、かつて凄惨な戦いと悲劇が繰り広げられた海岸線をしばらく望みました。何事もなかったかのような、青く美しい海。

 

  翌27日、貴重な沖縄訪問の機会でもあるので、帰途に就く前にふたつの戦争遺跡を見学させてもらいました。

 

  ひとつは、南城市にある「糸数アブチラガマ」。全長270mの自然洞窟(ガマ)で、沖縄戦時、この洞窟は糸数地区住民の避難指定場所や、日本軍の地下陣地・倉庫として使用され、戦場が南下するにつれて南風原(はえばる)陸軍病院の分室ともなりました。多い時で、200名を超える住民と、約600名の負傷兵が運び込まれ、軍医・看護婦・ひめゆり学徒らも配置されていました。

 

  数年前、全国史跡整備市町村協議会の南城市大会に参加した折、このアブチラガマ近くも通ったことがありますが、足元の下にそのようなガマが点在しているとは、その時は知りませんでした。南城市公民館長の具志堅さんにご案内いただき、ガマの中で詳しくお話を伺いました。漆黒の闇、絶えず滴り落ちる水滴、高い湿度、滑りやすい足元・・・この中で、数か月間にわたり、住民や負傷兵たちがひしめき、劣悪な生活環境、飢えと渇き、麻酔なしで行われた負傷兵の手術、積み重なる遺体、米軍からの火炎放射など、暗闇の中で具志堅さんから語られるあまりに悲惨な当時の光景に、言葉を失いました。1時間近いガマの見学を終えて、地上に出た時の、太陽のありがたさ。当時ここを生きて出た人たち、この中で息絶えていった人たちの思い。受け止めきれない様々なものを頂いた、アブチラガマでした。

 

  続いて、「摩文仁の丘」に近い、八重瀬町にある「クラシンウジョウの壕」を訪問。八重瀬町ボランティアガイドの金城さんにご案内いただきました。ここは、中世の城跡である具志頭城址の直下にある鍾乳洞を利用した壕で、眼下にある港川港付近に上陸する可能性のある米軍を監視するために、日本軍が使用したとのこと。住民の避難利用はなかったと言われています。
巨大な岩山の間にある谷の底に、壕への入口があり、その先には天然の地形による洞窟と、日本軍が掘り抜いた通路や部屋などがあります。金城さんから、当時この中で繰り広げられていた日本軍の様々なエピソードを訊かせて頂き、大変貴重な見学となりました。

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